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ふたりだけが知らない / FREE SAMPLE

序章
二台目の電話

瀬名 灯

 粘川久志のゴルフバッグには、ドライバーと、七番アイアンと、パターと、それから二台目のスマートフォンが入っている。

 五十二歳。港北市にある住宅設備会社「東和住設」港北支店で、営業部長をしている。妻の佐和子とは結婚して二十二年になる。娘の美咲は東京の大学に行き、家には年老いた三毛猫が一匹いるだけだ。

 ゴルフには月に二度しか行かない。だがバッグは毎晩、玄関脇の物置ではなく、車のトランクに積まれている。

 夜十時半。粘川は「ちょっと煙草」と言って家を出る。煙草は三年前にやめている。佐和子もそれを知っているはずだが、何も言わない。言わないことを、粘川は「夫婦の信頼」だと解釈している。

 車の運転席に座り、トランクから取り出した二台目の電話の電源を入れる。起動音が鳴らないように、音量は常にゼロにしてある。

 通知が一件。

「もしもしする〜?」

 湯島まゆからだった。

 粘川は、口元がゆるむのを止められない。フロントガラスに映った自分の顔――たるみかけた頬、白いものの混じった眉――が、少年のように笑っている。少なくとも、本人にはそう見えている。

 「するする」

 小声で発信ボタンを押す。

 まゆの声は、いつも少しだけ鼻にかかっている。会社で聞く声とは違う。会社の彼女ははきはきと敬語を使い、粘川を「部長」と呼ぶ。この車の中でだけ、彼女は彼を「ひさくん」と呼ぶ。

 「ひさくん、今日の会議、ほんとありえなくなかった?」

 「門脇だろ」

 「そう。あの人、なんであんなに数字ばっかり言うの。現場のこと何もわかってないくせに」

 「あいつは昔からそうなんだよ。頭でっかちで」

 「ひさくんが一番わかってるのにね」

 「まあな」

 二人は四十分話した。

 話したのは門脇の悪口と、昼に食べたうどんの話と、まゆが最近見ている韓国ドラマのあらすじだった。

 電話を切ると、粘川は満ち足りた気持ちで家に戻った。佐和子はもう寝室に上がっていた。リビングの座布団の上で、三毛猫が薄目を開けて彼を見た。

 二人には共有のメモアプリがある。タイトルは「業務改善メモ(支店営業)」。万一誰かに見られても仕事のファイルにしか見えないように、まゆが名付けた。

 中身は二人の日記で、末尾に一つだけ、日記ではない項目がある。

 「人材評価(内部用)」

門脇:数字バカ。D

早瀬さん:いい人だけど空気読めない。C

佐伯くん:かわいい。仕事遅い。C+

黒田支店長:何もしてない。E

奥さん:会ったことない。保留

 毎週金曜の夜、二人は電話でこの評価を更新する。それが二人にとって、一週間でいちばん楽しい時間だった。

 二人は、自分たちがこの支店でただ二人、物事が見えている人間だと思っていた。

 ほかの人間はみんな少しずつ鈍くて、少しずつ滑稽で、少しずつ自分たちより下にいた。

 この物語は、その「ほかの人間」たちが、一人ずつ、音もなく席を立っていく話である。

序章をお読みいただき、ありがとうございます。

ふたりだけが知らない

この先で、周囲の人々の物語が動き出します。
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